簡素な生活。

サカタカツミのブログ。連載のサブノートが中心。すべての働く人たちに。役に立つ話も立たない話もあり。

天動説社員との接しかた。


久しぶりに寄稿。この原稿のもとになるメモを自らのFacebookページにポストしたところ反響あり、原稿にしてくださいと担当編集者から依頼されたので、簡単に加筆して仕上げてみた。世界の中心は自分である、というある意味当たり前のことを、小さなころから言われ続けてきた世代にとっては「なにをいっているの、このおっさん」と言われそうな内容だが、まあ、アイドルといえば松田聖子世代にとっては、まだまだ違和感のある出来事だったのだ。そして、その世代が企業という仕組みの中ではまだまだ頑張っている。それがいいことなのかどうかは別にして。

メディアには書かなかった部分で、個人のブログで補足しておくと、このタイプが活躍できる企業はそれほど多くない。一つは「大企業」だろう。すべての従業員がフル稼働しなくてもいい、という余裕のある組織なら、こういうタイプは所属させておくべきだろう。そして、できればしつこいくらいに何度もチャンスを与えるべき。万が一ヒットを打つかもしれない。もう一つは「すべてこういうタイプのベンチャー企業」だろう。特にスタートアップレベルの企業に、聞き分けのいい人はいらないかもしれない。俺様気質の人がぶつかり合い、それこそ軋むような風土なら、このタイプは不可欠。

逆に、絶対に採用してはならない企業は「余裕のない企業」だろう。これは企業サイズによるところではなく、何事もルール化する、イノベーションですら仕組みで生み出そうとする、さらにいうと型にはめることで(以下略)そういうタイプの企業には、この手の天動説社員は向いていない。機能するかしないかわからないし、機能させるまでのコストがかかりすぎる。しかし、そういう企業に限って、採ってしまうんだなー、このタイプ。閉塞感を打破するとか、次世代を育てるとかいって。そして、閉塞感の原因になっている現状を改善しないから、天動説社員は潰れてしまう(ことが多い)。

(加筆)もうひとつ。小さな組織でギリギリ、それこそ余裕のない規模の企業も採ってはいけないだろう。自らの頭で考えるということを、それこそ勘違いしてしまって、組織としてどう動くべきなのかを「勝手に考えてしまって、結論を出して、動いてしまう」タイプは、その組織にとってお荷物にほかならないからだ。見分けがつきにくい、かつ、自覚していないタイプが多いので難しいところだけれども、小さな組織は全員が「目的のため」に動く必要がある。無駄をしている場合ではない。そして、その目的は自らのために、というところではないところが大切なところだろう。

天動説社員を手放しに認めたり、貶したりしているわけではなくて、彼らが自分のポジションに帰って自己肯定してしまう、その行為に対してどのように対処するのかは考える必要があるという話だ。成長のためには、殻を破る必要がある。そして、その殻を破るための力の多くは、ある種の外圧だ。が、ただ押し付けたとしても、感じのいい切り返しで、でも自分の意志は曲げない、自分は間違っていないとなって終わってしまう。かといって、自分でやらせて失敗したとしても、それを失敗と認めることなく、かつ原因を自分ではないところで探して納得しようとする。それを追い込んでも無駄。

世の中にはいろいろな人がいる。なんて当たり前の事実だろうか。しかし、結果としてだからこそ、組織として機能させることは難しい。相手との違いを認めて、尊重しつつ自らも成長するという、これも「いまさらなにいうてんねん」という話が、働く人の誰もの前提になっていればいいのだが、残念ながらなっていない。その前提があってこその天動説社員なのだが、残念ながら天動説社員の多くはそのことに気が付いていない。結果として、彼らの周辺のそうじゃないタイプが苦労することになる。事実、原稿に書いたアイドルグループでも「まじめな人が損をする」といった人もいたようだし。

やっかいなことに、組織の作る裏方だった人事担当者自身もフォーカスされるようになり、それを機に「あー、この人は天動説タイプだな」という人事は増えた気がする。まあ、人事権を振りかざすタイプはそもそもそうじゃないか、という指摘はさておくとして。結果として自分と似たようなタイプを採ってしまい、採られた(就職活動という狭い世界での)成功者たちが、次の天動説社員を再生産する。新卒採用時に、自分のやりたいことを問うようになってもうずいぶんになる。その結果としての天動説社員に戸惑っているとしたら、まあそれはそれで自業自得なんだけど、それはまた別の話。

当たり前や普通という罪。



連載コラムが更新されたのでサブノート的なエントリーを。タイトルだけ見ると「中小企業ふざけんなよ、女性差別かよ」とか「いやいや、筆者は実情がなにもわかっていないな、イマドキこんな話はない」という感じのお叱りを受けると思う。そう、その通りであって、こんな話は所詮ケースバイケースであり、置かれている立場や環境、さらには周囲の人たちの価値観の差で、まったく変わってしまうことなのだ。そんなことは百も承知している。その上でなお「当たり前」や「普通」という言葉を疑っておきたい。

結婚するのは当たり前か、出産は女性しかできないが、子育ては女性だけがおこなうのが普通なのか、男性は手伝うだけの存在なのか、女性ではなく男性が働くことが普通なのは健全なのか、身内が支えることによって成り立つように制度設計されている家庭という仕組みは当たり前なのか。考えればきりがない。現状、男性が働き、女性が家庭を守る的な考え方が「それでも根強く当たり前で普通である」からこそ、コラムに書いたようなモヤっとした状況が生まれてしまう。そこを変えるのは難しいという話なのだ。

図々しさには価値がある。



連載が更新されたので、サブノート的なエントリーを。フェイスブックのウォールを眺めていると、本当に「出会っている」のである。多くの人が出会い、その出会いに感謝し、感動し、運命を感じている。そして、そのことをことさら大げさに言う人ほど、結果的にいろいろなものを手にしている(ように見える)。出会いはきっと大事なのだ。自らに全く関係なく、縁遠く、そして、場違いな場所であっても、興味があれば出かけて行き、運命の出会いを掴み取る。そういうのって、誰もお膳立てしてくれないから。

と書いてしまうと「そういうのって、なんか気持ち悪くないですか?」という声が聞こえてきそうだ。が、その気持ち悪さの正体は、ある種の図々しさへの嫌悪であり、自らが同様の行動が取れない嫉妬のようなものだろう。しかし、考えればわかるのだけれども、当然のことながら「なにもしない」よりも「なにかした」ほうが賞賛されるべきであり、掴み取るものは間違いなく多い。手法や手順がどうであれ、結果的に「自らが手にした」と誇示すれば、その時点で世間は認めてくれるのだ。認められたいなら、ね。

働くを再発明しなければ。



あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。ということで、連載コラムが更新されたので、サブノート的なエントリーを。今年は企業が「働くを再発明する」ことを本気で考える一年になる、と思っている。というか、仕掛けを積極的にしていきたい。例えば、新卒採用はあってもいい、が、新卒という枠で採用されない、もっと別の視点で企業に雇われる大学生がいてもいい、という風な。もっと自由に求められ働く、という状況がシンプルに作り出せないか、という感じの。ある意味での破壊。

ワークライフバランスという言葉も整理したい。ワークとライフのバランスをとると口にすると、仕事と生活がイコールになってしまう。けれども、生活の中に仕事が含まれていて、その割合をどうバランスするのか、が肝心だという、当たり前のことを当たり前に考えられるようにならないかとも思っている。かつて仕事とプライベートとというカテゴリで区切っていた時代は、とうに過ぎたのに、まだそれを引きずっている言説が気持ち悪い、という感じのことは、声を大にして言い続けたい。割り切らない生き様。

働くということ。企業サイドから見ると、言い方は悪いが「働かせ方」を新しくしない限り、多様な価値観を持つ人たちを許容できないはずだ。人それぞれという言葉には賛否両論あるかとは思うが、少なくとも正しい社員という言葉があるという時点で、人々の選択肢は限られてしまうし、多様化を許さない構造になっている、という歪みをとっとと是正する必要がある。労働市場に「手が空いている」という人の量はずっと減り続けている。とした時に、働き手の供給源はどこにあるのか。それを考える年でもある。

そうなることで、個人が初めて「働くこと」に関する複数の選択肢を持ち得ることになり、自分と働くこととの関係性を、自らのバランス感覚でチョイスすることができるようになる。選択肢が提供されていない、少なくとも現状のように十分でない状況で、ライフワークバランスなどといっても、その幅は限りなく狭いし、多くの人が満足いく決断は出来そうにない。仕事とは「そういうものだ」という陳腐な台詞で、全て我慢させるという茶番は、いい加減やめなければならない。何ができるか、模索していきたい。

やり場のない気持ち悪さ。



仕事をしていると「やり場のない気持ち悪さ」に出会うことは少なくない。いろんな人がいるわけだから、いろんな考えがあっていいと、寛容な気持ちを持とうと思っても、結果として、その態度が裏目に出てしまって、望んでいない結果になることも意外にある。そうなってくると、もはやどう振る舞ったらいいのか、それすらもわからない気持ちになってしまう。かといって、自分なりの健全さを振りかざして、相手に要求をしても、それはそれで、青臭い態度に思えて、陳腐な光景にしか見えない。消耗戦になれば、時間が有り余っていて、かつ、鈍い人が勝つ。ま、それが世の中という考えもある。

ただ、他人の痛みがわからない人になりたいか、といえばそうでもなく、グッドルーザーでいたい。が、いつまでも負けてばかりいたら癪にさわるので「一旦、自分を殺してでも」結果的に自らが心地よく働く、いや、働くだけじゃない、過ごせる場所を確保することに、全力を尽くすのがいいかもしれない。死んだふりをして、最終的には勝つと。書いておきながら、こんなことは、実は勝ち負けではないことに気がついている。ただ、我が身を脅かしてくる人ほど、勝負にこだわるので始末に負えない。面倒な世の中だけれど、一つ一つ自分なりに解決をしなければならない。が、それもまた難しい。