簡素な生活。

サカタカツミのブログ。連載のサブノートが中心。すべての働く人たちに。役に立つ話も立たない話もあり。

食べた気利用ダイエット。



タイトルは釣り(笑)長年ターザンという雑誌を愛読している。というと、私を知る多くの人は不思議に思うだろう。スポーツマン体型とは程遠いフォルムだし、そもそもスポーツなんてしない。もー、随分していない。ジムに行ってプールに入ることはあっても、せいぜい身体を浮かべているかヨチヨチと歩いている程度で、それをスポーツと呼ぶ人がいたなら、私だって立派なスポーツマンだけれども、そんなことはありえない。けれどもコンビニで見かけるターザンはなかなか魅力的だ。うん、腹筋割りたい。

で、買って「なるほど、これで腹筋が割れるのか。うん、これは知っているし、この情報はこの間の号でも見たし、このノウハウはもはや自分の手中にあるといっても過言ではないな」と思いつつ読むのだ。それでおしまい。私は残念なことにそれで十分満足してしまって、結果的に腹筋すらやらないし、お腹は割れない。だるんとした肉が付いていて、雑誌を読む前と何も変わっていない。当たり前だ、多くの問題は読むだけで解決するはずもないこと。だが、読んでしまうことで意外に片付いた気になってしまう。

キャリアアップに役立つ情報も、この構造に似ている。いや、ダイエットやボディメイクほどは苦行が伴わないから、少しは実行に移しやすいか。ただ、いずれにしても「読んでやる気になる」ことと「読んでやった気になる」こととは、文字の感じはとてもよく似ているが(それこそサカタカツミとササミカツ以上に似ている)大違いだ。その悲劇を避けようと思うと、強い意志を持つか、それこそキャリアアップに役立つ情報の洪水から逃れるしかない。日常に溢れる有益といわれる情報の多くは価値は低い。

役立つ情報の多くは、誰かが問いを立ててくれていることに最初の有益性がある。薄々感じていた違和感の正体が、誰かの立てる問いで「なるほど、これだ」とスッキリすることは少なくない。しかし、裏を返せば、その部分の効率化を追うほど結果として「問いを立てる能力」が、育たなくなってしまう。わからないからネットで検索している間はいい。いつの間にか「自分がわからないこと」もネットで見つけるようになる。それはそれで怖い。だって、そうなってしまっていることに気づきにくいからだ。

うそがあふれる働く世界。



働くに関する連載をスタートさせた。女性向けオンラインメディアなので顔出しはやめようかと思ったが、どうせ調べればわかっちゃうことなので。というのも、以前セミナーなどに登壇するたびに「あれ、女性だと思っていました」「なんだー、男性だったのですね」といわれることが多かったのだ。サカタカツミという名前は、確かにちょっと男性的というよりも、女性によっているのかもしれない。コラムのトーンや文体もゴツゴツしているというよりも、柔らかい感触を大事にしているし。

主に若年層を中心としたキャリア、もっと端的にいうと働くことを考え、サービスを開発したり、事業をプロデュースしたり、メディアに書いたり、講演などで話したりしているが、最近とても気になっていることがある。それは、働くを考えるための舞台には「べき」という言葉が跋扈*1していることだ。すべきこと、と称されたものが箇条書きされ、文字通り金科玉条のごとく流通している。しなければならないことと「言われるなにか」に多くの人は追われてしまって、それこそ疲れ切っているように見える。

そこに書かれていることの多くは「誰かがやって上手くいった」ことであり「自分がトライしても上手くいくとは限らない」ことなのだ。しかし「すべき」と書かれてしまうと、そこから逃れることは難しい。少しずつ「ためになる言葉だというふりをしたなにか」が、それを受け入れて取り込んだ人を蝕んでいく。どこかでデトックスしなければならないのだけれども、自覚症状がない人にとっては、それは出来ない相談だろう。ただこれだけは言える。自戒の念を込めて。働くを考える世界には嘘が溢れている。

例えば「誰かにやらされるよりも、自分でやりたいことをするべきだ」と個人向けにアドバイスされることの多くは、裏を返せば「やらせるコストをかけるよりも、自分でやるように仕向けたほうが低コストだ」という、企業の論理の延長線上にあるケースは少なくない。仕掛ける側も仕掛けられる側も混乱しがちなのだが、表もあれば裏もあるのだ、なにごとも。いや、毒にもなれば薬にもなるという言葉のほうがふさわしいかもしれない。だとしたら、なにごとも自分の都合で生きるほうが後悔は少ない気がする。

そんなことを腹に持って、ゆるゆると連載をしたいと思っています。どうぞよろしく。

*1:(追記)あえて今回のコラムにも使ってみました。

ひとりでいるための覚悟。

自分自身を信じることはとても難しい。なにかを成し遂げられる人間だと妄想していたとしても、いつでも誰かに寄りかかっていたいし、言い訳をして済むのなら無理はしたくない。できないことに対して、あれやこれやと理由をつけることで、誰かの責任にしてしまう。そうすることで、少なくとも自分自身はある程度傷つかないで済むし、誰かに何かをなすりつけることで、その多くは解決してしまうのだから、まあ、楽なのだ。自分の能力を信じて、思うままに行動することは、普通の人間には相当難しいと思う。

職業としての小説家 (Switch library)

職業としての小説家 (Switch library)

 

新しい書籍が発行されること、それ自体がニュースだという、極めて稀有な存在の作家の自伝的エッセイ。通読していくと、そこには『ひとりでいるためには、どのような覚悟をしなければならないのか』ということ、その刃が突きつけられている状態が続いていく。柔らかな、極めて選び抜かれたラフな言葉によって、受ける印象は人それぞれだとは思うが、少なくとも孤独に耐え、自分を信じ、納得のいく生き方をするためにはとても骨が折れるということを、筆者は繰り返し書いている。その言葉に切り刻まれる。

天の啓示を受け小説を書き始めたと、それこそ物語的なイントロダクションで小説家としてのキャリアを歩み始めた、と筆者はいつも語っている。それはどうやら本当らしいが、その後のキャリアを積み重ねていくアプローチは、極めて用意周到だ。自分が描き出したいものが、自分自身の頭の中にはクリアに浮かんでいる。それをあからさまにするための能力を明確な仮説を立て、それを慎重に実行していくことで獲得していく。やりたいことを実現するために、できることを増やす。これはとても難しいことなのだ。

『職業としての小説家』というタイトルが付いているが、むしろ、何かを生業とすること、その根源のようなものが、わかりやすい言葉で綴られている。場合によっては恨み言が書き連ねられている風にも取れる文章も(批判に関して馬耳東風の印象があったけれども、実際はかなりナーバスになっていたことがこの本で明らかになっている)、味方がいない状況であったとしても、なおそれを乗り越える覚悟が、何かを成し遂げるためには必要なのだということの裏返しであると痛感させられる。生きるための一冊だ。

刺激の先にだけある怖さ。

刺激的な話をすることは、難しくない。多くの人がドップリ浸かってしまっている日常生活にない、ちょっとしたスパイスを用意して、鼻先で嗅がせるだけ。少しの演出は必要だし、刺激的な話をする人間であるというセルフブランディングも大切だが、その苦労を上回るリターンが仕掛ける人間にはある。自分にとって日常的ではない生活を垣間見て、その世界のメンバーになろうとしている人から、金をむしりとることができるのだから。そんな風に、あっという間に身包みを剥がれて捨てられた人の話は、面白い。 

我が逃走

我が逃走

 

勘違いしてはならないのは、他人の不幸は蜜の味、という本ではない。多くの人が舞い上がり、勘違いをし、足元をすくわれるプロセスとパターンは、意外に多くないということが、この本には、ぎっしりと詰まっている。それを楽しむ一冊なのだ。付け込まれるということはどういうことなのか、祭り上げられてしまった人間の心情はいかばかりなのか、刺激的であると勘違いさせるための舞台装置はどういうもののなか。とても上手で読みやすく、かつ、エンターテインメント性豊かな文章が、それを明らかにする。

ただ、この本を読んだからといって、たまたまお金を持ってしまった人を、サックリと騙せるようになるのか、いや言葉が悪い、身包みを剥げるようになるのかというと、それは無理だ。逆に、この一冊を読むことで、いかに自分たちの生活が、いろいろな人たちからむしり取られているか、ということに気がつかされる。面白い施設がオープンしたといえば、その刺激を味わいにいく人たちがいる。その経験は情報化され、すぐにシェアされて、別の人がその刺激を味わいにいく。新しい製品だって、ほぼ同じことだ。

はらたくこと、という部分にフォーカスしてもそう。誰かが考えた「べきである」という、一個人の単なる価値観が、さも「でなければならない」と流布していく。注意をしていないと、そこから逃れることはできない。なぜなら、べき論の先には成功(したように見える)人が待っていて、手招きをしているのだ。こちらに来れば素敵なことが待っているよと、ぬるま湯に浸かっていると危険だよと。ただ、呼んでいる人ばかりを見ていると、足元の落とし穴には気がつかない。でも、怖さって甘いんだよね。蜜の味。

買いたがっている脳の話。

脳の働きに関する本を浴びるように読んでいると、かつて常識だったことが、いまではまったくの非常識になっていたり、単なる当て推量に他ならなかったことがわかって面白い。研究が進むということはこういうことなのかという体験が、勝手にできる。といいつつ、書籍というパッケージになった時点で、最先端とは言いがたく、ある程度は色あせてしまっているんだろうけど。それでも、知のバージョンアップはとても楽しい。

買いたがる脳 なぜ、「それ」を選んでしまうのか?

買いたがる脳 なぜ、「それ」を選んでしまうのか?

 

この本の素晴らしいところは、どんなものでも買ってしまうように仕向けられている世の中で、買わないようにすることは極めて難しく、いや、絶望的に無理なのだと諦めさせられること。合理的に考え、踊らされまいと考えている人でも、その考えるプロセスの中に、少しトラップを埋められるだけで、操られてしまうのだから。例えば「自分へのご褒美としてのお菓子」という発想。これが暗示のフレーズだと、誰が気付こうか!

脳はとても優れた器官であるが、優れているが故に過信しがちで(いや、持ち主である人間が脳を信じてしまう癖があるからかもしれない)その過信に付け込むことで、脳は「正しく、間違いなく、合理的に」いまの自分にとって必要のない選択をしてしまう。ソーシャルネットワークツールが普及したいま、かつてよりもその操作がたやすくなってきた。繰り返し刺激されることで脳は学習する、それが「正しいこと」なのだと。

例えば、インスタグラムなどで「誰が見ても素敵だと思う写真」を熱心に投稿している人の中に、子供が題材になっているケースは多い。フォトジェニックなそれは、極めて賞賛を浴びやすい。ただ、子供にとってみれば、素敵な思い出とは「スマートフォンを構えて、トリミングを計算して立ち位置まで指示する親」と向かい合うことだと、脳が学習してしまう。その怖さまで思いが至る、ある意味「寒く」なる一冊だ。オススメ。