簡素な生活。

サカタカツミのブログ。連載のサブノートが中心。すべての働く人たちに。役に立つ話も立たない話もあり。

当たり前な世界への道程。



働くの現場において「女性なのに」という言葉には、当然ネガティブな要素も含まれているが、ポジティブな意味で使われることのほうがずっと多い。今回の連載コラムにも書いたが、女性なのに頑張っている、女性なのに有能だというような用例は、まさに典型だろう。ただ、よく考えてみるとこの使い方、当事者にしてみれば少しもポジティブではない。むしろ「普通だったらできないのが当たり前なのに、できるのが凄い」と、今時の言葉を使えば「上から目線」での賞賛で、人によっては不愉快かもしれない。

ただ、多くのメディアやキャリア支援(この言葉は好きじゃないが)をしている人たちにとっては「なのに」という言葉を使って賞賛すべき対象者の多くは、レアケースであり、だからこそ雑誌の巻頭を飾り、ロールモデルとして指し示され、登壇を依頼され多くの聴衆へと話すことになる。この状態をなくさない限り、つまり現在「なのに」という言葉で讃えられている人たちが、なのにがなくても認められる、もしくは、そもそも活躍することが「当たり前の時代」にならなければならない。ただ、その道程は遠い。

褒められたいを我慢する。



いずれこの連載で書こうと思っているが、仕事を「好き」「嫌い」で判断する人は少なくない。当然ながらそういう感情を抱くことは不思議ではないけれども、案外と危ないことに気がついている人は、それほど多くない。モチベーションという言葉もそうだけれども、仕事と向き合う理由のようなものに気持ちを利用するマネジメントは、プラスに働ければいいけれども、マイナスになることもある。負の側面を考えると、好き嫌いなどというとてもコントロールが難しいドライバーに、色々と任せるのは怖すぎる。

上司になると仕事の難易度は上がるけれども、褒められる機会は減る。そう、感情で仕事へ向き合う理由がどんどんと減っていく。以前のように給料が極めて高いとか、社会的地位が保証されているとか、部下の成長「だけ」を見ていればいいとか、そういうのがないままに、上司というタイトルをつけられてしまうと、自分と仕事の向き合い方のコントロールするドライバーが見つからなくなってしまう。結果として、今までの自分の居場所にこだわり続けてしまう可能性も垣間見えてくる。これ、意外に厄介なのだ。

あなたは何がしたいのか。



単純に考えると、企業は従業員に対し「やりたいようにやりたいことをやってもらう」わけにはいかない。当然だ。そんなことをしていたら組織の体をなさない。まあ、会社という言葉には「 同じ志をもって物事を行う集団。結社。仲間(マックの辞書より)」という意味もあるので、一概に切り捨てるわけにはいかないのだが、それには「社員」という言葉があるわけで(辞書を見れば被雇用者以外の意味もあることがわかる)。要は「何がしたいのか」と聞かれるシーンには、必ず裏があると思って間違いない。

ただ、この問題が根深いのは「従業員のモチベーションを維持することは、企業の利益につながる」という本質的な部分をまったく忘れてしまっているマネジメント担当者が少なくないという事実だ。企業の採用担当者たちの多くも「やりがい」や「自社を舞台にした成長」を声高に訴求しながら学生をハンティングしているうちに、どうやらミイラ取りがミイラになってしまうし、その中で採用され、育成され、配置された従業員たちは勘違いをしたままとなり、人を管理するようになる。この連鎖を断つのは難しい。

ひとを思うことの難しさ。



人を思いやりなさいというのは簡単だ。けれども、実際にその効用を説明するには骨が折れる時代になった。空気が読める人とは、ある意味では究極の人を思いやることができるという意味だったはずだけれども、それは顔色を伺う、調整だけをする、自分の意見を持っていないというレッテルにもなってしまって、いつの間にかネガティブなワードに成り下がった。自分勝手に行動することで満足する人たちを褒め称える環境も次第に整いつつある。他人に構っていて損をするくらいなら、という風潮は止められない。

としても、やはりひとを思い気持ちをないがしろにするべきだ、という世の中にはしてはいけない気がする。わたしが子どもたちを相手に講演をするときに「働くとは、シンプルに考えると、誰かに困ったを良かったにする、これに尽きてしまいます」「逆に誰かの困ったで自分が良かったになっているのは、犯罪者です」と話している。そう、ビジネスとは突き詰めると、誰かの困ったを良かったにすること、なのだ。ひとの困ったを見つけられないようは次世代に、ある意味では未来はない。という話でもある。

食べた気利用ダイエット。



タイトルは釣り(笑)長年ターザンという雑誌を愛読している。というと、私を知る多くの人は不思議に思うだろう。スポーツマン体型とは程遠いフォルムだし、そもそもスポーツなんてしない。もー、随分していない。ジムに行ってプールに入ることはあっても、せいぜい身体を浮かべているかヨチヨチと歩いている程度で、それをスポーツと呼ぶ人がいたなら、私だって立派なスポーツマンだけれども、そんなことはありえない。けれどもコンビニで見かけるターザンはなかなか魅力的だ。うん、腹筋割りたい。

で、買って「なるほど、これで腹筋が割れるのか。うん、これは知っているし、この情報はこの間の号でも見たし、このノウハウはもはや自分の手中にあるといっても過言ではないな」と思いつつ読むのだ。それでおしまい。私は残念なことにそれで十分満足してしまって、結果的に腹筋すらやらないし、お腹は割れない。だるんとした肉が付いていて、雑誌を読む前と何も変わっていない。当たり前だ、多くの問題は読むだけで解決するはずもないこと。だが、読んでしまうことで意外に片付いた気になってしまう。

キャリアアップに役立つ情報も、この構造に似ている。いや、ダイエットやボディメイクほどは苦行が伴わないから、少しは実行に移しやすいか。ただ、いずれにしても「読んでやる気になる」ことと「読んでやった気になる」こととは、文字の感じはとてもよく似ているが(それこそサカタカツミとササミカツ以上に似ている)大違いだ。その悲劇を避けようと思うと、強い意志を持つか、それこそキャリアアップに役立つ情報の洪水から逃れるしかない。日常に溢れる有益といわれる情報の多くは価値は低い。

役立つ情報の多くは、誰かが問いを立ててくれていることに最初の有益性がある。薄々感じていた違和感の正体が、誰かの立てる問いで「なるほど、これだ」とスッキリすることは少なくない。しかし、裏を返せば、その部分の効率化を追うほど結果として「問いを立てる能力」が、育たなくなってしまう。わからないからネットで検索している間はいい。いつの間にか「自分がわからないこと」もネットで見つけるようになる。それはそれで怖い。だって、そうなってしまっていることに気づきにくいからだ。