簡素な生活。

サカタカツミのブログ。連載のサブノートが中心。すべての働く人たちに。役に立つ話も立たない話もあり。

学生の自由を奪う支援者。



連載が更新された。学生たちにもっと自由度を与えよう、そういう仕組みを作って支援しよう、社会の許容度を高めようという人たちに「ん?それで良いんでしたっけ?」と疑問を提示している内容にした。ただ、肝心なことを読み違える人たちが続出しそうなのでしれっと書いておくが、支援したがっている人や制度や仕組みやシステムを非難しているのではない。そういう仕組みが用意されることによって、かえって学生たちの「自由度を奪っている」ことを忘れてはならない、という話なのだ。

支援と称する活動をしたり、仕組みとして定着させようと努力している人たちの多くは、当たり前だが「自分たちは正しくて、そのために一生懸命やっている」と正当性を主張する。もちろんその通りで、ぜひ頑張っていろいろとやって欲しい。が、それはあくまで「であればいい」程度の話であって「でなくてはならない」ということではないのだ。仕組みを作れば作るほど「でなくてはならない」という状態が作られてしまう。結果として「選択の余地がない」状態に支援される側を追い込んでしまう。

いろいろなところで書いているが、大切なことは「多様性」だ。世の中にはいろいろな人がいて、いろいろな考えを持っていて、いろいろな働き方をして、いろいろなことに喜びを見いだす。その状態が「アリだよね、それも」と言われるのがベストだと私は考えている(と書いてしまうとダブルバインドなんだけど。多様性がなくてはならないっていってしまっているので・笑)。制度や仕組みを提言することは「目的を果たすための近道」であることはよくわかる。だから慎重にならなくてはならない。

ポストモラトリアム時代の若者たち (社会的排除を超えて)

ポストモラトリアム時代の若者たち (社会的排除を超えて)


学生にモラトリアムをという話を耳にしたときに「は?学生なんて遊んでいるみたいなものでしょう?」という反応をする社会人たち(特に年輩者)が多かった。しかし、遊んでいない大学生も少なくない。まるで高校生のような状態になってしまう大学生活が現実にあるのだ。なぜそうなってしまったのか、少し考えればわかる。逆のベクトルから支援するべきだという人がたくさん現れて、その結果が今なのだ。支援するという言葉はもっと丁寧に使う必要があるだろう。

#追記#

この記事のタイトルに関して、編集長に問い合わせがツイッターを通して飛んできているようなので筆者としての立場を追記しておく。私自身、ギャップイヤーには大賛成。モラトリアムに関しても、そういう時期があってもいいと思う(なので、親しい企業に新卒にこだわらない採用を呼びかけ、実際にやってもらっている)。ただ、それは「学生が自主性を持ってそういう行動をすること」に賛成であり、大人がことさら仕組みを用意するほどではないと思っている。あるコメントをリツイートしたが「仕組みがあってもやらない人もいれば、なくてもやる人がいる」というシンプルな話なのだから。いままでの学生支援でもありがちだった「仕組みを作ることで自由を奪ってしまう可能性がある」という側面に目をつぶってはならない。その自覚がない行動は「気がつかないでやってしまう」ことがあり、支援という言葉の延長線上に「自らの視野が狭まる」ことを気にかける必要がある、という話を忘れてはならないと考えている。