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簡素な生活。

サカタカツミのブログ。連載のサブノートが中心。すべての働く人たちに。役に立つ話も立たない話もあり。

主催者になるか参加者か。



連載が更新されたのでサブノート的なものを。今回のテーマは若手社会人向けのサイトをプロデュースしているときからずっと頭の中にあった違和感で、複数の似たような相談を受けている過程で「あ、もしかしたらそうかもしれない」と思っただけの、比較的ゆるい話である。兆しのようなものだから、杞憂に終わるかもしれないし、そもそもどこが悪いのかといわれると、それほど悪い話でもないような気がするし、案外大変なのかもしれない感じもする、その判断のつかなさ加減がまた、すこし気持ち悪い。

世の中の役に立ちたいという気持ちは素敵だと思う。そして、役に立つ方法はいくらでもあるし、様々な人たちがいろんなカタチで世の中の役に立っている。しかし、ソーシャルメディアやソーシャルネットワークツールなどの普及で、個人の活動なり行動なり考え方が可視化され、否が応でも共有される時代になったいまでは、本来たくさんあったはずの「世の中の役に立つ方法」が「集約」されつつあるなと感じている。いいね!とたくさんボタンが押されたり、リツイートが繰り返されるタイプのそれに、だ。

連載コラムの文中にあるような「ゴミ拾いに参加した」という役立ちかたでは、友人の賞賛は得られるが、そこから広がらない。ゴミ拾いのイベントを企画したという話なら、周囲にも広がり、その行為は承認されていく。認められていくプロセスや結果はかつてよりもずっと「見えやすく」なっている。だとしたら、そちらを目指すのが当然というのは、わかる気もする。しかし、同時にゴミ拾いのイベントを企画しても、ゴミを拾ってくれる人がいなければダメだという、当たり前のことを忘れがちなのが怖い。

この流れは「当事者意識」という言葉で見ると趣がある。企業はいわれたことをやる、という人は嫌い、自らが経営者的な視点を持って行動できる人が望ましいと。しかし、あくまで「経営者っぽい」というだけな気がする。そう考えると「ゴミを拾えといわれて拾う人」は嫌だけど「自らゴミ拾いに参加してくれる人」がいい、という話なのかもしれない。そう「ゴミ拾いのイベントを企画する」人はある意味でやり過ぎで、そういうタイプには企業という枠は窮屈である可能性も高い、ということも考えたりした。