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簡素な生活。

サカタカツミのブログ。連載のサブノートが中心。すべての働く人たちに。役に立つ話も立たない話もあり。

会社という場所の意味は。



連載が更新されたのでサブノート的なエントリーを。会社という存在の持っている意味が変わってきているような気がする。いや、大きな意味では変わっていないのだが、小さなほころび、といっては適切ではないけれども、そんな感じの、たわみか。残念なことに、入り口の学生たちはその変化に気づくことなく、そして、教えてもらうこともなく、会社という存在に期待して歩を進めるのだが、それ自体がもう、間違っている。会社はかつてほど温かい場所ではなく、逆にいうと冷酷な場所になりつつある。

例えば、成長という言葉ひとつとっても、成長の定義が曖昧になってしまい(かつてはもっと曖昧だったが、それでも信じられる言葉のひとつだった)人によって、イメージする成長が違ってしまった。その結果、会社は会社の求める成長を、そこで働く人が自分で察知して、勝手に貢献できるように成長してくれ、という方向に舵を切りたがっている。自律性の高い人、自分でなにかができる人、を血眼になって探している。働く人の教育に責任を持ちたがるのは、大きく、そして、古い企業ばかりのように思える。

大きな企業は、文字通り働く人も多い。なので、結果として、多様性が認められる気がする。違った価値観の持ち主でも、そこに存在することが許容される。個人の存在などノイズみたいなものだと感じるか、それとも放置プレイされても大丈夫ないい環境だと捉えるかは、別の問題として。そのサイズが懐の深さを見せることは多い。逆に小さなサイズの会社だと、ささやかな価値観のぶれが衝突を産み、結果としてロスが多く発生することになる。なので、多様性は低いことも多い。そう、多様性はゆとりなのだ。

成長するという言葉ひとつとっても、それは自分にとってのという意味なのか、自分自身が存在するコミュニティが求めることなのか、考えだすとキリがなくなってくる。組織に属しているのだから、その構成員として、組織が機能するために求められることをやるべきだろう、とシンプルに考えられていた時代は、とうの昔に過ぎたはず。なのに社畜という言葉に、いまだに違和感を持たないということは、推して知るべしなのかもしれない。このエントリーに答えはない。ただ、難しい時代ではある、ということだ。